3.揺れた気がした鳳仙花

 菜津実は悩んでいた。友人と思っていた人物から好意を伝えられ、困っているのだ。正直、今は誰かと付き合いたいとか恋人が欲しいとかは考えていない。そのため、適当に断っていたのだが、ある時痺れを切らしたのか、今付き合っている人がいないのならせめて試しにどうかと言ってきた。何度断っても引かないため、菜津実はいい加減うんざりして頭を悩ませていた。
 どうすればいいのか考え、ふと一つのアイデアが浮かぶ。そうだ、誰かと付き合っているフリをすればいいのだ。なるべくなら、自分のことが好きではなく、頼みごとは聞いてくれる人がいい。そんな奇特な人などなかなかいないが、菜津実には心当たりの人物が何人かいる。
 そのうちの一人が、今ソファで寝ている。声をかければ返事はあるが、反応は薄い。仕方ないとは思うが、菜津実は意を決して男を呼ぶ。
「ねえ、お願いがあるんです」
 そう一言伝え、男を見る。男は、不思議に思ったのか、菜津実のことをじっと見ながら、言葉を待っていた。
 恋人のフリをしてくれないかという菜津実の『お願い』に、男はなぜ、というような顔をしている。菜津実は簡潔に説明をし、嫌なら無理に付き合わなくていいと付け加えた。
 しかし、男はすぐに返事をする。快くというものではないが、引き受けてくれるとのことだ。男の返事に、菜津実は安堵する。こんな自分勝手な女に、さらに変なお願いをされて、嫌な顔をしつつも聞いてくれる。奇特な人の中でも、さらに輪をかけてお人好しのようだ。人が良すぎて心配になってしまう程である。都合よく利用している菜津実が心配するのもおかしな話ではあるのだが。
「そしたら、まずは恋人らしく振る舞えるよう練習しましょ。せめて、怪しまれない程度にはならないと」
 菜津実の言葉に、男は何も返事をしない。無言の肯定と受け取って、菜津実は話しを続けた。
「それで、近いうちに空いてる日はあります? 私は来週だと助かるんですけど」
 勝手に話しを続けながら、菜津実は手帳を取り出して予定を見る。来週は休みの日は特に予定はなかったはずだ。何も予定を入れていないので、一人でどこかへ行こうかと考えていた日ではあった。
「俺は、いつでもいい」
 男の返事に、菜津実はそれなら、と自分の予定が空いている日を伝える。大丈夫だと答える男に、菜津実は感謝の言葉を述べた。それと同時に、菜津実は手帳に予定を書き記す。
「そういえば」
 手帳を閉じ、菜津実は思い出したように言う。
「お互い、名乗ってませんでしたよね」
 その言葉に、男は驚いたような顔をした。その顔が、なんとなくおもしろいように感じる。
 このまま名前を知らないほうが、遊ぶのには都合がいい。しかし、偽りとはいえ恋人になってくれる相手だ。名前を知らないというのはおかしい。何も、変なことは言っていない。
 菜津実はにっこり笑って、自分の名前を伝えた。
「鵜澤菜津実です。鵜澤でも、菜津実でもどちらでも呼びやすいほうでどうぞ」
 そして、男に名乗るように促す。
「……立霧縁だ」
 渋々とでもいうような声だったが、しっかりと耳に響く。聞き慣れないものではあるが、面白い名だと思った。
「では、よろしくお願いします、立霧さん。お代はちゃんと払いますので」
 男を見て名前を呼び、菜津実は微笑む。男には嫌な顔に見えていたためか、いつも以上にしかめっ面をしていた。
 ソファで寝ている男のそばに寄り、上から見下ろすような位置に立つ。男は、すでに菜津実のことなど見ていない。
「せっかくなので、サービスしますけどどうします?」
 普段は言わないことを言ってみるが、男は首を振って提案をを拒否する。わかっていたことなので、菜津実はいつものように帰る支度をして、挨拶も手短にさっさと部屋を出るのだった。



 待ち合わせの五分前。初めてのデートで緊張している風を装いつつ、菜津実は待ち合わせ場所に向かう。普段夜しか会わないため、昼の時間帯に会うのは新鮮だ。少し楽しみな気持ちを持ちつつ、菜津実は目的の人物を探す。
 その男はすぐに見つかった。しかし、何故だろう。彼を見て、一番最初に思ったことは、近づきたくない、ということだった。
 別に、服がダサいとかそういうものではない。むしろ、いつもよりいい男に見える。それなのに、菜津実は男のもとへ行くのを渋った。
「ごめんなさい、待ちました?」
 なんとか心を落ち着かせて、声をかける。なるべく明るい声を出したのだが、顔はひきつっているのがわかる。せめて、男には気づかれないことを願った。
 男は、菜津実の言葉に、自分も今来たところだと返す。それ以来、二人は沈黙した。
 菜津実が黙っているのが不思議なのか、それとも菜津実の顔がひきつっていることに気づいたのか、男は不思議そうな顔をする。どうしたのかとは、聞いてこない。
 しかし、このまま何も喋らず、さらに突っ立ったままでは、何もできない。今日は目的があって男を誘ったのだ。何もせず帰ることは避けたい。大きく息を吸ってから、菜津実は口を開いた。
「あの、なんでスーツを着てるんですか……?」
 そう、男はスーツを着ているのである。普段はスーツを着て仕事をしているわけではなく、さらに普段男がスーツを着ているところを菜津実は見たことがない。それなのに、今、この男はスーツを着ている。
 別に、デートの時にスーツを着ている、というだけでは問題にはならない。スーツを着てデートをする人がいることを、菜津実は知っている。しかし、問題は時間と、これから行く場所に相応しい服装かどうかだ。お昼前の人通りの多い休日。明らかに、今の男の格好は浮いていた。
 菜津実の格好は、男とは反対にカジュアルなものだ。動きやすく、また相手が好みそうな、並んで歩いても大丈夫そうな服を考えていたのだが。
「今日は仕事帰りとか、立派なレストランに行くようなデートじゃないんですよ?」
 思った以上に、低い声が出てしまった。怒っていないことを伝えようとしたが、男の悲しそうな顔が目に入ってしまう。申し訳ない気持ちを持ちながら、菜津実は少し声のトーンを上げた。
「その格好じゃあまりに堅苦しいので、最初に服を買いに行きますよ。それじゃあ、隣を歩くこっちが息苦しくなります」
 男の手を引っ張り、菜津実は人混みの中を歩き始める。なるべく男の顔を見ないようにしつつ、だ。
 男の服装には特に詳しいわけではない。むしろ、興味がないほどだ。しかし、恐らくこの男のセンスよりは自分の方がマシだろう。良さそうな服を見つけ、菜津実は店の中へと入った。
「この人に合う服をお願いします」
 店に入って早々、菜津実は店員を見つけて男を引き渡す。店員は、最初驚いた顔をしたが、すぐに笑顔でわかりましたと言う。何もわからない男は、戸惑った声を出して菜津実と店員を交互に見ていた。
 よろしくお願いしますと告げると、店員は男を連れて店の奥へと消えていく。一人になった菜津実は、軽く息を吐いて店内を見回した。
 普段なら入らないような店のため、つい色々見てしまう。男物の服をじっくり観察することもあまりないため、菜津実は店内を歩きながら不思議な気持ちで辺りを見回した。
 ふと、菜津実は今日のデート相手のことを思い浮かべる。何か似合いそうなものはないかと考え、服をいくつか手に取った。
 しばらくすると、男と店員が戻ってくる。先程の場違いなスーツとは違い、小洒落た感じの雰囲気を出していた。一目見た感じだと、悪くない。
「こちら、いかがでしょうか」
 店員が、菜津実に聞いてくる。菜津実は、今度はじっくりと全身を見る。顔が地味であるためか、ぱっと見た印象に派手さはない。しかし、落ち着いた色合いで、ラフすぎない程よいカジュアルさのある格好に、菜津実は店員のセンスの良さを感じた。
「今着ている服一式と、あとこれも一緒にお会計したいので、サイズ合わせてください」
 菜津実の言葉に、店員はかしこまりましたと告げる。ついでに、菜津実は店員に男が今着ている服をそのまま着ていくことを伝えた。今の格好なら、隣で歩かれても問題ないだろう。男と店員が去っていくのを見て、菜津実はレジの方へと移動した。
 再び男と店員が戻ってくると、菜津実は会計を済ませる。男が最初に着ていたスーツは、他に買ったものと一緒に袋に入れてもらう。服を何着か、それとアクセサリーなどの小物もあるため、中々の量になってしまった。会計時、男が自分で払うと何度も言ってくるのだが、菜津実は聞こえないフリをした。これは必要経費なのだ。
 服屋を出る。外は、天気が良く少し眩しい。軽く深呼吸して、菜津実は男に体を向けた。
「それは私からのプレゼントです。今度またスーツ着てデートするようなことがあったら、殴りますからね」
 誇張ではなく、本気で言う。男はたじろいでるのか、菜津実から一歩引いて頷いた。
 そろそろ昼頃だろう。昼食を取るにはいい時間かもしれないと、思考を切り替える。
 菜津実は男に近づいて、腕に絡みつく。そして、どこか甘えたような声で、囁いた。
「そろそろお昼ご飯を食べにいきません?」
 小さくうめくような言葉が聞こえてきたが、気づかないフリをする。これはデートなのだ。例え偽りでも、少しでも恋人らしく振る舞いたい。
 男の諦めたようなため息が聞こえる。菜津実は、相変わらず男の態度を無視しながら、自分が行きたい店へと男を引っ張った。

 入った店は、菜津実のお気に入りのところではあるが人は多くない。しかし、店の雰囲気が良く、味もいい知る人ぞ知る、という店だ。
 店員に案内されて、席に着く。昼時であるためか少し騒がしさがあるが、人の声が心地いい。店に流れている音楽も雰囲気に合っており、心が落ち着いていく。
 ふと目の前に座っている男を見ると、落ち着かないのか辺りを見回していた。ここはそこそこお洒落な店であるためか、気後れしているのだろう。
「ここ、けっこう美味しいんですよ。好きなの頼みましょう、立霧さん?」
 名前を呼んで、上目遣いで見る。名前を呼ばれたことで少し落ち着いたのか、男は頷いてメニューを見始めた。
 菜津実は、男のことを眺めながら、店員が運んできた水を一口飲む。最初の買い物で疲れたのか、冷たい飲み物が身にしみていく。まだデートは始まったばかり、これからどうしようかと菜津実は考えた。
 食べ物を決めて、注文をして、頼んだものがくるまで。特に話すことがないわけではないのだが、無言が続く。そのためか、男が緊張しているのが伝わった。
 何に緊張しているのかわからず、菜津実は疑問に思いながら少しでも男の緊張を解そうとする。その行動が、男の手を握るというものであったため、男は困惑した顔で菜津実のことを見た。菜津実は安心させるように、言葉を重ねていく。
「そんな黙ってたらつまらないじゃないですか? せっかくなんですし、色々話しましょうよ。この後どこへ行くかとか」
 なるべく相手に警戒心を抱かせないように、菜津実は笑いかける。相手が緊張しすぎないよう、どこかくだけた雰囲気を出すよう努めながら。
 少しすると、菜津実の努力が実ったのか、男が口を開いた。相変わらず、男の雰囲気は固いままではあったが。
「……まあ、そうだな。どこか、行きたいところがあれば」
 男が返事をくれたことに、菜津実は喜ぶ。何も返事がないと、ただの寂しい独り言になってしまう。そんな相手など、一人でいたほうがマシになってしまう。
「時間があるんですし、立霧さんも何かお話ししません? もっといっぱいお話ししましょうよ」
 普段なら言わないことが、口をついて出てくる。お互いのことを知るなんて、面倒なだけだと思ったのだが、何故か今は、彼のことを知りたいと思った。
 そして男が口を開こうとした時、食事が運ばれて、机の上に並べられる。美味しそうなにおいに食欲がそそられ、二人は会話を中断して食事を始めた。  

                                                        食べ終わり、会計を済ませる。服を買ったお礼だろうか、お金は男が払ってくれた。お礼を言い、菜津実は先に進みながら男に尋ねる。
「立霧さんって、映画見ます?」
 菜津実は、近くにあった映画館を指差した。男は、菜津実の指差した方を見て少し思案する。菜津実にとっては、適当に聞いてみただけで、時間が潰せる場所ならどこでもいい。映画館が嫌なら、水族館や美術館、または別の場所へ行くのもいいだろう。
 菜津実が少し考えていると、男ははっきりとした返事ではないが、見る方だと答えてくれた。男の様子をじっくり見てみると、少し固い表情をしている。何か気になることがあるのだろうか。しかし、菜津実は彼にかける言葉がわからない。何も見なかったことにして、菜津実は男の腕に体をくっつけた。
 今度は、男の困り顔が見える。歩きにくいのだろうか、左右に体が動く。少し残念に思い、仕方なく、菜津実は体を離す。せめて恋人に見えるようにと、手はしっかりと握り直した。
 改めて男の顔を見たが、菜津実の印象はやはり地味というものだった。だが、じっとしれてばいい男に見えるかもしれない。髪を弄れば、印象が変わるかもしれない。
 そんなことを思っていると、目の前に映画館が見えた。映画館の周囲に、現在上映されているものと今後流される映画のポスターが貼られている。たくさんあり、迷ってしまう。映画にはあまり詳しくないため、何がいいかわからない。
「立霧さんは、どれがオススメとかあります?」
 せっかくなので、隣にいる男に聞いてみる。聞かれた男は、顎に手を当てながらポスターを睨みつけるように見ていた。険しい表情をしている男の様子を見て返事を待っていると、これがいいんじゃないかというようにとあるポスターを指差した。
 それは、最近流行りの恋愛映画である。周りの同僚が、この間見たと言っていた気がする、よくある恋愛ものの映画だ。恋愛映画に興味がないため面白いのかどうかはわからないが、評判はいいらしい。
 こういうのが好きなのかと聞いてみると、男は難しそうな顔で、デートによさそうなやつを選んだつもりだと答えた。確かに、今はデートというていで二人はいる。だが、それではあまり面白くない。興味ないものよりも、最初の印象で良さそうなものがいいかもしれないのだ。
 少し冒険しようと、菜津実は男が指したポスターの隣の物を指さす。
「それならこっちを見ません? 私、こっちのほうが気になります」
 明らかに、低予算で作られたような映画だ。それでも、陳腐な恋愛映画よりはおもしろそうだと思った。
 男も同じ思いだったのか、特に拒否もなく映画の上映時間を調べる。幸いか、すぐに始まるとのことだったので、急いでチケットを買って二人で映画館の中へと入った。

 人気がない映画のためか、それとも別の映画に人が流れているためか、人は少なかった。そのせいか、映画を存分に堪能できたような気がする。
 また、映画の内容も思った以上におもしろいもので、ところどころに挟まるギャグや、わかりやすい内容、低予算でありながらしっかりとした作りに満足する物だった。
「映画、おもしろかったですね」
 男に声をかける。二人が今いるところは、映画館から近い喫茶店だ。窓際で、日が当たり心地いい。今はお茶をするのにもちょうどいい時間のためか、人がそこそこいる。店内では、いろんな人の声が聞こえてきた。
 男は、菜津実の言葉に黙って頷く。注文カフェオレを口に含み、菜津実は先程見た映画について思い出していた。
 穏やかな時間が流れる。店内の音が心地良い。目の前の男は無理矢理会話するタイプでもないため、一緒にいても苦にならないこともあるのだろう。
 飲み物と一緒に頼んだ軽食を食べつつ、菜津実はこの後どうしようかと男に尋ねる。このままこの喫茶店で過ごすのもいいし、あてもなく適当に歩くのもいいだろう。それか、今からでも少し遊べるところで遊ぶのもいいかもしれない。
 そんなことを考えていたが、男は菜津実の問いに応えることなく、好きにしていいと言ってきた。わかっていたことだが、この男はどうも頼りにならない。何も言うことなどないとでもいうように、男はただコーヒーを飲んでいる。
 軽くため息を吐く。視線を窓へと移し、外を見た。歩いている人が目に入る。楽しそうにしている人たちが、少しだけ妬ましく感じた。
 頼んでいるのは、菜津実だ。男がわざわざ考える義理もないだろう。しかも、この男は表情がわかりにくい。楽しんでいるのか、それとも無理に付き合っているためつまんないでいるのかの判別もつかなかった。
 男が今何を考えているのか、菜津実はわからない。知っても、何かが変わるわけではないのだが。残り少なくなったカフェオレをティースプーンでかき混ぜながら、菜津実は次は何しようかと考えた。

 喫茶店を出た後、二人は目的地を決めずに適当にあたりを歩いた。良さそうな店を見つけたら入ってみて物色してみたり、ゲームセンターに入って少しだけゲームをしてみたり。様々なところを歩き回っていたせいか、気付くと日が暮れてきていた。
「そろそろ、飯を食わないか?」
 ちょうどいい時間帯だろうか、男が声をかけてくる。空腹を感じてきたため、菜津実は頷いてどうしようかと聞いてみた。
 今は商店街を歩いており、様々な店が目に入る。一人であれば適当に済ませようかと考えるが、今日は違う。デートの締めにもなるので、せっかくならそれに合う店がいい。
 男は悩んでいる。今日だけで、何度優柔不断なところを見ただろうか。少し呆れつつ、菜津実はあたりを見回した。
 最初に目に入ったのは居酒屋だった。しかし、初めて会った時のことを思い出し、すぐに候補から消す。こんなところで深酒されて帰れなくなるのは困るからだ。
 次に、ラーメン屋が目に入る。男の人が何人か、店の中へと入っていく。美味しい店なのだろうか。デートとしてはあまりにも色気がないが、どこか心惹かれてしまう。
「立霧さん、ラーメンとかどうですか?」
 誘惑に負けて、菜津実は未だ悩んでいる男に尋ねる。男は、菜津実が言ったことが予想外だったのか、間抜けな声を出していた。一応建前はデートであるのだから、余計不思議に思ったのだろう。
 もう一度聞いてみると、男は頷いて肯定を示してくれた。菜津実は一番近いラーメン屋へと向かい、何を食べようか考え始めた。男女で入るには色気がない場所に思えるが、この男にはそれくらいがちょうどいいかもしれない。
 ラーメン屋に入り、二人並んでカウンター席へと座る。人が多く、熱気を感じた。二人で好きなものを各々注文し、一息ついた頃。菜津実は、男に話しかけた。
「今日はありがとうございました」
 こんな時間までつき合ってくれたことや、今日時間をとってくれたこと、他にも、色々なわがままの相手をしてくれたこと。そんな様々な思いを抱いて、口にする。
 しかし、男は気にしてないというような態度を取る。この男の場合、本気で気にしてないのか、それとも菜津実に対し呆れているのかがわからない。男の顔を見ても、表情を読むことができなかった。
「女は、こうして人に付き合ってもらうだけでも嬉しいものなんですよ」
 自分はそうではないが、周りの知り合いが言っていたことを思い出す。もしいつか、この男が恋人を作った時、参考になればいいと思った。
 男は相変わらず考えが読めない返事をする。もう少しわかりやすければ会話のしようもあるのだが、菜津実は諦めて、注文したものが来るのを待つ事にした。
 食べ終えて店を出るまで、二人は無言だった。

 店を出ると、外にはまだ人がたくさんいる。家に帰るには、まだ早い時間だからだろうか。足早に歩いている人もいるが、友人たちとの別れを名残惜しんでる人、寄り添うようにして歩く恋人同士と思われる人たちがいる。
 いろんな様子の人たちを見てから、次に隣の男のことを見る。男は、買ったものを手に持ち、どこか遠くを見ているようだった。菜津実のことは、見ていない。
 菜津実のことなど興味ないのだろう。今日一日も、ほとんど無反応だった。話しかけても、会話が続かない。色々付き合ってくれたことはありがたいが、流石にここまで反応が薄いと、一緒にいる意味はあるのだろうかと考えてしまう。
 勝手に男の将来について考えていると、声をかけられた。
「送ってく」
 短い言葉である。菜津実は最初、何を言われたのかわからなかった。果たして今日、この男が自分から話しかけてきたことはあっただろうかと思ったほどだ。
 菜津実の返事がないことに焦ったのか、男が心配そうな顔で菜津実のことを見てくる。こんな顔もするのかと関係ないことを頭の片隅で考えて、菜津実はふと目に入ったホテルを指差した。
「それよりも、どこか寄って行きません? ほら、あそこにホテルもありますし」
 俗に言う、ラブホテルだ。今日の締めに、ああいう場所で体を求め合うのが男女というものだろう。
 しかし、男は首を横に振る。駄目だと答える男に、菜津実はなぜかと尋ねてみた。この男のことだから、きっと今はそういう気分じゃないとかそういう答えが返ってくるだろう。答えを待っていると、男は恥ずかしそうに、小さい声で恋人と行くところだろう、と呟いた。
 意外な答えに、菜津実は目を丸くする。むしろ、ああいうところほど、本命以外と行く場所だと思っていたからだ。男の答えに、菜津実は、ただ感心する。キスは恋人以外としたくないと言ったり、この男は意外と純情だ。
「そうですね、あなたにはそうなんでしょうね……」
 含みを持たせて、菜津実は言う。今から男の家にいく気分でもないたいめ、今日はおとなしく家に帰るべきだろう。
 わかりましたと呟いて、菜津実は駅へと歩いて行った。男は、菜津実を送るという言葉を叶えるためについてくる。相変わらず無言で、菜津実が何か話しかけてもほとんど反応がなかった。
 電車に乗り、二人の間には会話がない。少し息が詰まるような気がして、菜津実は何度か深呼吸をした。
 家の最寄りの駅に着く。街灯の小さい灯りが心許ない。いつもなら一人で歩く道だが、今日は少し後ろに男がいる。隣を歩かないのは、男の矜持だろうか。やはり、菜津実にはわからなかった。
「ここまででいいですよ」
 家まであともう少しというところで、菜津実は言う。これ以上は、なんとなく一緒にいるのが息苦しいと思ったからだ。それに、家族に見つかるとうるさいという理由もある。
 男が何か言いかけるが、菜津実は大丈夫だと重ねて言う。菜津実の迫力に負けたのか、男は納得していない顔をしていたが、わかったと返事をした。
 男は、その場から動こうとしない。家まで送れないのならせめて、見送ろうとしているのだろう。男の意図をなんとか掴み、菜津実は男に背を向けた。後ろから視線を感じる。それでも、菜津実は振り返らずに歩き、角を曲がった。
 この人は真面目なのだ。わがままに付き合ってくれるし、嫌味を言うときはあるが、拒絶はしない。純情で、会話が少ないのは、恐らくコミュニケーションが苦手だからだろう。
 家に着き、一息ついてから納得した。今日は楽しいかどうかと聞かれれば、あまり楽しいとは思えなかった。それなのに、菜津実はあの無愛想で無口で、しかし純粋な男のことがもっと知りたくなってくる。
 今度はもう少し会話ができたらいいなと考えながら、菜津実は家族に帰宅した旨を告げた。今日も、一日が終わっていく。



 恋人のフリをしたことが功を奏したのか、あれほどしつこかったアプローチがなくなった。好きでもない男からの好意は、菜津実にとってめんどくさい以外の何物でもない。
 久しぶりに会った男に、手助けしてくれたことのお礼を言う。男の表情は相変わらず読めないが、軽く返事をしていた。この男にとっては日常茶飯事なのだろうか。
 菜津実は、机の上にお礼のお金を置く。依頼料としては十分なお金のはずだ。仕事の依頼というわけである。実際はただの口約束ではあるのだが、距離感の線引きのためだ。
 男は金を見て何かを言ってきたが、菜津実は無視してさっさと玄関へと向かう。今日は他に行きたい場所があるので、男にかまっている余裕はない。そのお金で、今日はいいものを食べてればいい。
「今日はこれだけで帰ります。また今度、楽しみましょうね」
 去り際に、菜津実はさよならを告げて部屋から出て行く。後ろは振り返らず、階段を降りていった。すれ違うものは何もない。
 それからしばらく、菜津実は男のところへ行くことはなかった。


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